こんにちはオヤジです。
みなさんは自分の中で鮮明に覚えている子供の頃に経験した出来事が、当時を知る家族や友人と話していて記憶が食い違っていたことはないですか?
今日は、昔の思い出を端緒に、過去ってなんだろう話に広げてみたいと思います。
の三本です。ウンガッグッグッ
古い記憶
僕が小学校低学年の頃だったか、家で姉と遊んでいる時に、姉の隠したものを超能力を使って見つけ出すという実験をすることになった。もちろん超能力なんてあるわけではなかったけれど、当時の僕は将来は仮面ライダーやウルトラマンになれるかもしれないと考えていたくらいのお子ちゃまだったので、ひょっとしたら自分には超能力があるかも?と期待していた。
実験の内容はこうだ。事前に姉が品物をわからないようにどこかに置いておく。それを僕が後から探すのだが、そのやり方が子供らしい。
目の前に五郎丸のルーティンのように指を立てて、それをダウジングロッド代わりに使うのだ。集中して場所を念じるとあら不思議。勝手に指が曲がって超能力が品物のある方向を教えてくれる。
もちろん自分で曲げているんだけど、子供だから超能力が自分の指を動かしていると思っていたw。意識的に曲げている自覚はあっても不思議な力が自分にそうさせているんだとね。
その頃は小さな借家だったんだけど、指の指示に従って二つめの部屋へたどり着くまではすぐだった。次に指は玄関のほうへクイッと曲がった。見ると玄関にあった椅子の上に探していた品物が置いてあった。
自分に超能力があったことを確信して興奮した。ヒーローなったような気がした。
でも何年かして姉に聞いたらあれは自分が最後にこっそり品物を置いたっていうんだ。
僕の記憶では姉は最後までそばにいて一緒に見つけたから、そんな隙はなかったはずなんだ。
考えられるのは姉の言う通り、目を盗んでこそっり置いた可能性がひとつ。でも姉は僕と一才しか違わないのに、マジシャンのミスディレクションばりのことをしたのだろうか。
もうひとつは姉の記憶違い。
あとは、嫉妬あるいはいじわるで弟の実績を否定した可能性。
あ、あとひとつあるね。
それは何年かして姉に尋ねたことも含めて現実にはなかったことで、僕の脳が作り出した偽の記憶って可能性もある。
さあどれなんだろう?
その自信どこから来るの?
僕の例を上げるまでもなく、ちょっとした記憶違いというのは誰もが経験していると思う。自分は記憶違いなんかしないと言う人は、よっぽどの自信家か頑固者で間違いの指摘を受け付けないだけだ。
面白いのは記憶違いが判明するまでの、見事なまでのあの自信だ。
決定的な証拠を突き付けられるまでのあの根拠のない自信よ!
根拠も何も俺が覚えているんだから間違いない、というところか?
ところが記憶違いを論破された途端、さっきまでの自信は生まれたての子鹿のようにグラグラゆれて、自分の記憶の確かさに対する矜持は戻ってこない。
まあ、一晩寝たら自分の記憶力への信頼は取り戻しているんだけどね。
ところで関西では浜ちゃんの「ごぶごぶ」という番組があるんだけど、関東エリアでは流れてるのかな?
この番組は浜ちゃんとロンブー淳が街ロケする内容で、他にライセンスがレギュラーで出ている。
少し前の回で北海道でロケをしていた。
ロケ中に浜ちゃんが、以前にその近辺にプライベートで来た時にラーメン屋があって、そこのラーメンがすごくうまかったから今から行こう、と言い出した。
急遽、予定を変更してそのラーメン屋を探すことになった。
店の名前は「オレンジ」だという。
後輩のライセンスが別働隊で必死に探すが、なかなか見つからない。
ネットを検索するも何も出てこない。
そんなに大きな街ではない。都会と違ってラーメン屋の数もかぞえるほどだ。
そこでライセンスが浜ちゃんの記憶違いではないかと意見をすると
「オレンジで間違いない」と半ギレで怒られる。
何とか浜ちゃんに当時の記憶をたどってもらい、ロケーションからこの辺りではないかと実際に現地を探索してみると、ありましたラーメン屋が。その名も
ラーメン屋みかん
その後、きまりの悪い浜ちゃんは後輩の淳とライセンスにいじられっぱなし。いまだにオレンジ事件としていじられています。
こんなことみなさんも一度や二度は経験したことがあるんじゃないかな。
時には、その場にいた登場人物まで間違っていることもありますよね。
記憶とはいい加減なものなんです。
そして明らかな証拠をつきつけられない限り、その記憶が間違っているなんてつゆほども思わないんです。
存在しない過去
現在・過去・未来と読むと頭の中で勝手に「げんざいかこみら~い~」とメロディーが流れる人は、きっとオヤジと同世代です。肩上がりますか?腰痛くないですか?
上で書いたように記憶が不確かなものなら、過去ってどういうものなんでしょう。
考えたことあります?
現在つまり今については議論の余地が無いですよね。
聞こえてくる街のノイズ
目の前に広がる光景
漂ってくる料理の匂い
おしりに感じる椅子の感触
どれをとってもダイレクトな体験ですから間違いようがない。
一方の過去はどうだろう?
まず、その土台となる記憶があいまいだ。
そこで科学の発達とともに人間は心の外に記憶の場所を求めた。
最初は文字と紙の発明で、文書による保存が行われた。
次に写真が考案されて瞬間を切り取れるようになった。
そして映像技術ができて連続的に場面を記憶代わりに残せるようになった。
もう一つ記憶を補強してくれるものがある。
それは時間を共有した人の存在だ。
違う視点での記憶は、体験を立体的に再現してくれる。
では、それで過去は明らかなものとして存在しうるのだろうか?
あてにならない記憶も、外部の記憶媒体や他人の記憶の力を借りて確かなものにすることができる。「みかん」を「オレンジ」と間違うこともないだろう。
でもそれは、どこまで行っても精密な記憶であって過去そのものではない。
そこには今におけるようなリアルはない。どんなにリアルに思えてもそれはバーチャルに過ぎない。例えるならプロジェクションマッピングを見ているようなもの。
だから本当の過去はどこにも存在しない。
個人のビジョンの中に描かれるだけのものだ。
よく言われる、今しかないというのはそういうことです。文章での表現はどんなにがんばっても齟齬があるけどね。
化石も遺跡も古文書も、あらゆるアーカイブも過去を表しているわけではなくて、諸行無常に流れる今の残した爪あとだ。それをつなぎ合わせても今が進んできた道順がわかるだけ。その時代を生きた人々のリアルな体験は永遠にわからない。
感情の起伏や思考の変遷や五感など、心の中のことはアーカイブすることはできないから。
過去は存在しない。
今のあなたは今生まれたばかり。
そのことが腑に落ちるときっと楽に生きていけます。
オヤジの妄言を最後まで読んでくれてありがとう。
なお文中では、自分のことを言う際、僕という表現に統一しました。父親という意味とややこしいからね。
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