社会のウソを知った日

シェアする

この数日、世間を賑わしている清原逮捕のTVを見るたびに、少しさびしい気持ちになるオヤジです。

熱狂的な野球ファンというわけではなかったけど、日本全国老若男女が高校野球に熱狂していた世代の人間ですから。それにKKコンビは池田高の畠山、水野、そして早実の荒木に続く大スターだったからね。

さっきの番組でビートたけしさんが言ってた、ドラフト会議での巨人の裏切りが清原の人生を大きく変えたんじゃないかという意見、僕もそう思います。

大人になって年を重ねれば、社会はウソにまみれていることは誰もがそれぞれ承知していくだろうけど、野球一筋で純粋だった少年が夢を叶えてくれるはずだった大人にウソを吐かれて夢を砕かれるなんて、よっぽど堪えたろうと思う。

それで自分の小さい頃の出来事を思い出した。

子供の社交場

僕が子供の頃だから四十年以上前の話になる。

同世代の人は説明はいらないだろけど、知らない世代の方に少し説明するね。

当時は今のようにコンビニなんかない時代(ちょっとしてから、草創期のローソンが近くにできた)だった。

スーパーも限られたところにしかなく、普段食料・雑貨を買いに行くといえば市場に行くしかなかった。

親が子供のおやつを買うといえば市場だったのだけど、子供が自分で小遣いを握りしめていくのは駄菓子屋だった。

今でもショッピングモールなどにチェーン展開している駄菓子屋もどきのショップがあるけれど、似ても似つかないものだった。

今のコンビニと違って対象となる客は子供だけ。

ここで子供は初めての経済行為に参加する。

駄菓子屋で売っているのはおやつだけでなく、コマやビー玉や凧など昔ながらの玩具、銀玉でっぽうや爆竹や刀や虫取り網などワイルドな品物などさまざまだった。

それに加えて子供たちのハートを鷲掴みにしたのは当てものと呼ばれるジャンルのものだった。

ここで子供は初めてのギャンブル的行為を経験する。

対象となる商品はこれまた多様で、ひも付き飴、黒砂糖、スーパーボール、ミニカー、怪獣、チョコレート etc

四角い小さな紙を引いて、それをめくると何等か書いてあるというのが定番のくじだった。

店先にはガチャガチャやルーレットが置いてあったり、店によってはピンボールまで置いてあった。

そこに放課後になると子供たちがわらわらと集まってきてクラスや学年を超えて交流する、子供のための社交場だった。

年に一度のぜいたく

その頃の僕は二十円か三十円くらいのお小遣いを毎日支給されて、それをもって駄菓子屋に行くのが常だったので、駄菓子をたくさんは買えず、当てものも一回か二回するのがせいぜいだった。

そんな僕でもお年玉をもらった正月だけはぜいたくができた。

当時は今のように元日から開いてる奇特な店はなかったので、潤沢な資金を手に悶々としながら駄菓子屋の開く日まで待ったものだ。

新年最初の開店に喜び勇んでやってきた僕にある当てものが目に留まった。

車をモチーフにしたチョコレートの当てもので、一等は大きな車の形をしたチョコレート。
表面を包む銀紙がそこはかとなくゴージャスさを醸し出している。

さらに魅力的なのは、その一等を残して全部の景品の数がもうわずかになっている。

くじの数を確かめてみると、残り十数枚。

その時僕は千円という豊富な資金を握りしめていた。店の爺さんだってひざまずく大金だ。僕は思った。

「全部買える……」

千円あれば余裕で残りのくじを買い占められる。

買い取り価格と一等を含めた残りの商品の価値を考えれば、絶対に買いだ!

そう確信した僕はその当てものをする旨を店の爺さんに言った。

一気に買い取る必要はない。最初のほうで一等が出ればもっとお得だ。一回ずつすればいい。

まず一回目……ダメだった。そううまくはいかないか。

二回目、三回目と引いたがまたダメだった。世の中そんなに甘くないか。

次々、トライするが当たらない。

でも、客は僕だけだったので慌てることはない。最終的には一等は僕のものだ。

続けていくうちに残りのくじが数枚になった。

もう、ほとんど全部買っちゃった。運ねえなぁ……と思いつつ、また次のくじを爺さんに頼む。

結局最後の一枚になった。

自分の運のなさを呪いつつ、これで一等のゴージャスチョコを我が物にできると安堵しながら最後のくじをめくった。

はずれ

僕は事態を飲み込めないまま、しばらくの間そのくじに書かれた人を小ばかにしたような、くねった曲線の文字を見つめていた。

店の爺さん、いや、くそジジイは悪びれた様子もなく、

「あれ、なんでやろうな? かわいそうやからこれあげるわ」

と言ってあろうことか残った一等ではなく、奥から出してきた数段格の落ちる商品を僕に渡した。

大人が子供をだますなど露ほども思っていなかった僕は、初めて社会のウソの洗礼を受けてショックに打ちひしがれながら、とぼとぼと家路についた。

それはギャンブルでいかさまに遭ったとも言える出来事だった。

子供にはウソを吐くな

常々思っているんですが、日本は子供にやさしくない社会だなぁと感じます。

上記のようなことは子供の代わりに社会的弱者であったり、おとなしい人だったり、人のいい方だったり、登場人物を変えていろいろな場面で同じような構図のことが起こっていると感じるんだ。

もちろん人それぞれ違いますので、駄菓子屋の爺タイプでない方もたくさんいます。

各論はここでする気はないですが、子供に絞っていうと、日本は社会のシステムとしてアメリカなどと比べて子供を第一に考えるスタンスに欠けていると思う。(特にセイフティーネットの部分で)

個々の家庭で見ても結構、子供のことが二の次になっていることが多いように感じるよ。

別にたいそうなことを言っているわけではなく、

例えば子供がぐずっている時に、そのうちディズニーランド連れて行ってやるとか、今度欲しがっていたおもちゃを買ってあげるとか。

大人からしたらごく何気なく言った会話。一方の子供は大きな約束と感じている。

その場しのぎの大人は忘れていたり、都合で実行しなかったりが普通にある。

でもそれは子供にとっては契約違反。親に文句を言う度胸もなければ、主張するだけの話術もない子供は泣き寝入り。だからそれはトラウマになって残ります。

その出来事そのものを子供自身が忘れていても、残ったトラウマがその後の人生に影を落とすことになる。

子供は未熟な人間じゃない。親より劣っているわけじゃない。

社会の初心者であって等しい人間だから。

清原のしたことは擁護できないが、未熟な人間なわけじゃない。

社会の初心者からスキルアップできなかったんだ。

それは大人のウソに巻き込まれたことが大きかったと思う。

いずれランクアップしてまた戻ってきてほしい。江夏のように。

あのキャラは嫌いじゃない。

スポンサーリンク
スポンサー

シェアする

フォローする

スポンサーリンク
スポンサー