暖かくなったり大雨が降ったり、気候が目まぐるしく変わる日が続きますね。
身が引き締まる様な真冬の寒さが好きなんですけど、どこ行っちゃったんでしょうね。
みなさんは子供の頃、自分の中にもう一人の誰かがいて、話しかけたりしていませんでしたか?
たとえば学校の帰りに歩道と車道を分ける縁石の上を歩いて、一度も落ちずにあそこまでいけたら、○○ちゃんと結婚できる、とかいう一人遊びありますよね。誰でもやったことあると思うけど。
そんな時、誰に対して約束していました?
それ、ただのひとり言ちゃうん!ひとりでつぶやいてるんだから相手なんかいない。
と言われるかも知れないですが、ほんとにいないですか?
静かにその様子を眺めてみたことありますか?
自分の中の誰か
当時はべつに自分の中に別人格がいると思っていたわけではないけど、思い返してみると何かすごい親密な相手に話しかけている感覚だったね。
まさに自分に語りかけている様なときもあれば、神様に話しかけている感覚の時もあった。
これを読んでる今も、この話に対してなんやかんや頭の中で批評したり、同意したりしているでしょ。
それは僕に向けて言っている場合もあれば、自分の中でひとり言のように言っている場合もある。
じゃあ、ひとり言のように言っている場合、それは誰が聞いているの? 誰が同意してくれているの?
伝わらないかな?
ちょっと趣向変えてみよう。
小さい頃は大人を見ると、すごい大人に見えたよね。
もっと時代を上がってもいい。たとえば学生の頃にしよう。
すでに社会に出てバリバリ働いている社会人を見ると、やっぱり大人に見えなかった?
それで自分が社会に出て大人になった時、貫禄のあるシニアの世代の人を見ると、また自分よりずっと大人に見えた。
じゃあ、実際に自分がシニアの世代になって大人になったって思えるか?
僕は思えない。みなさんどうでしょう。
きっと思えないと思う。
もちろん社会に揉まれていくうちに、処世術というテクニックは身についた。
見た目に貫禄も付いているはずだ。
それでも僕は内面の自分は変わっていないと感じる。みんなはどうかな?
それが本質
その変わっていないと感じる自分は、一体なんだろう?
それは子供の頃に話しかけていた相手そのものだよ。
今、頭の中でひとり言をつぶやいているのを、黙って聞いている誰かだ。
瞑想をしている時、頭の中に湧き出てくる思考を見つめている存在だ。
お釈迦様やイエス・キリストが話す内容はその存在からのメッセージだ。
世界中の覚者やメッセンジャーやチャネラーがは話す言葉もその存在の言葉だ。
でも特別なものではなく、それがあなたの本質で同じものを持っている。
そして誰もが同じ本質を持っている。
それはまさしく同じものでコピーじゃない。
同じように持っているのではなく全く同じ物を共有している。
あなたの中の本質が静かに世界を眺めている時、同じ本質が僕の中から世界を眺めている。
それがよく言うワンネスのほんとうの意味だ。
人によってその本質を神、魂、真理、アートマンなどいろいろな呼び方をする。
瞑想は本来、そこに帰るためにするんだ。
誰もが赤ちゃんの時、そこにいる。そこはまさしくエデンの園。
やがてりんごの実を食べて、エデンの園を出て行く。
お釈迦様やキリストが説いたのも、ヨガや瞑想が目的とするのも、またエデンの園に帰ることだ。
エデンを出ずに赤ちゃんのままいるのは動物と変わらない。
赤ちゃんのままならエデンにいることも分からない。
外を知ってエデンの素晴らしさを知った上で帰っていく。
それは人間にしかできないこと。だから、それが生きる目的だともいえる。
今日はちょっと飛ばしすぎました。乱文失礼しました。
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