いざ瞑想を始めたはいいものの、いつも心のおしゃべりにいつの間にか囚われて、知らぬ間にそのおしゃべりの張本人になっていた、なんてことはありませんか?
瞑想を続けてさえいれば、やがて惑わされることなく、心のおしゃべり=思考をやり過ごすことができるようになるんですが、それまではなかなかもどかしいと思います。
僕も最初は一分と持たずに、心のおしゃべりに参加してしまっているのにはたと気づき、自分に呆れたものです。
今日は瞑想中でなく、普段の生活の中でできるちょっとした訓練と言うか、技を教えたいと思います。
思考は自分ではない。その正体を見破ろう
この方法は、人が何かを考える時、自分が自発的に考えて、自分でその答えを出しているという根強い錯覚を解くのに役に立つと思う。
何をしててもいいけど、座ってちょっとした時間のあるときにやってください。
まず心の中に浮かんでくる思考に注意して、それを観察して下さい。
そう思って観察する時、”思考を観察しよう”という思考もあるはずです。
それも含めて観察して下さい。
心のおしゃべりに巻き込まれるの恐れて、考えないようにしようとか、眼をそむけようとかしないでね。
むしろ積極的に心のおしゃべりが始まるのを待ち受けるように注視して下さい。
”おお、自分は思考を観察しているぞ”という思考も出てくるかもしれませんが、それも含めて観察して下さい。
”こんなことして、なにかわかるのかよ”という僕を批判する思考も、見つけたら観察して下さい。
そうやっていると、いつしか湧いてくる思考とは少し距離をおいた視点から、それらの思考を観察している自分に気づくかもしれません。
そしたらそう思った思考も観察して下さい。
そんなことをやっているうちに、出てくる思考から一歩引いた視点が定位置になり、湧いてくる思考を観察できるようになります。
そこまで来ると、さあ来いと思考を待ち受けていても、逆におしゃべりが止まり、頭の中が静かになっているのに気づくでしょう。
その一歩引いた視点がわかれば、瞑想の時もその位置で安定して、頭の中も静かになると思います。
そこが関所
実はその一歩引いた視点は”今ここ”であり、”プレゼンス”であり、”只”でもあります。
俗にいう”悟り”の第一歩とも言えます。
スピリチュアルの道を進んでいく時の、最初の関所となる状態で瞑想を真剣に続けていれば誰もがたどり着けるし、瞬間的、一時的なら誰もが知っている場所なんだけど、多くは途中でやめてしまって、あるいは道をそれてしまって辿りつけないんです。
もし、そこが定位置として落ち着いたら、スピリチュアルで言われるいろんなことが腑に落ちるようになると思います。
キリストの言うことも、お釈迦様が言うことも、あらゆる覚者が言うことも全部同じことを指していることがわかるようになります。
この方法でもよく分からない場合は、ダグラス・ハーディングの”頭のない方法”が助けになるかもしれません。
コメント