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非二元と死後の世界は相容れないのか?

午後の修行

今、世間では非二元が流行っていますね。

阿部さんが取り上げてから一気に認知されたみたい。

非二元で検索すると120万件ヒットするんですよ。かなりのビッグワードです。

今日は非二元に関して書いてみたい。

僕自身、非二元の概念は頭ではわかっていても、体感として腑に落ちているわけではないですから、あまり偉そうなことは言えません。

でも、概念としてでも非二元を受け入れると、いろいろと引っかかることが出てくるのですが、みなさんはどうでしょうか?

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霊とか死後の世界とか生まれ変わりとか

まず霊とか死後の世界ですが、非二元では「この世は存在しない」とか「生まれてもいないから死ぬこともない」って言いますよね。

でも実際に霊感のある人はすごく多いし、古来よりリアルな話にも事欠かない。

霊を見たことがある人は普通に周囲にいるんじゃないですか?

あと、生まれてもいないし死んでもいないのに、生まれ変わりとかどういうこと?

アジャシャンティは覚醒した時に前世の情報を一気に体験したとか言っているし。

高次の存在って何だよ!

チャネラーと呼ばれる人が言うならともかく、いろいろな覚者が高次の存在に言及している。

たとえば一時話題になった本、「“それ”は在る」の作者は有名な高次の存在に導かれたことをあとがきで書いていたし、あの黒斎さんも雲さんという存在がいたし、なによりもお釈迦様が梵天という高次の存在の助言で教えを広めることにしたんだ。

「分けることのできない全体しかない」「愛しかない」「”それ”しかない」と言いながら、個別の人格があるとしか思えない存在が”それ”を教えているっておかしいじゃん。

ネットとデバイスの関係で例えてみる

僕はこれらの疑問は正直あまり何とも思っていない。

それは知っているからではなく、知りようがないから。

非二元は特別なことではなく、程度の差や自覚か無自覚の差はあれ、誰もが知っていることだ。単にエゴには認識できないだけだから。

しかし、肉体が死んだ後のことは、実際に死んでみないとわからないし、死んだら自我はなくなるのだからそれを知る存在もいない。

それでも自分なりの解釈はあるので、みんなが理解できるようにそれをネットとデバイスの関係に落とし込んでみた。

霊や霊界の解釈

霊が見える人と見えない人がいることの説明として、よくラジオの周波数に例えられる。

霊に周波数が合う人が霊を見たり、何らかの影響を受けるということだ。

周波数の合わない人にとっては霊は存在しないも同然だ。

実際に空中には無数の電磁波が飛び交っているけど、生身の人間には認識できない。ラジオのような受信機がなければ、何も知ることはできない。

この考え方は大筋で合っていると思うけど、エゴ(自我)が特別な能力とも言える受信機を持っているというのは、どうも落ち着きが悪い。

非二元からだいぶ離れてしまう例えだ。

それに霊界はどこにある?生まれ変わりは?という問いに上手く答えられない。

そこで僕なりの解釈はこうです。(今日思いついたし、あくまでも理解のために簡略化したもので、結局のところは死ななきゃ判らない、いや、死んでも判らないよ)

ネットに見るこの世のフラクタルで書いた、ネットとデバイスの図式がもう一度役立つ。

まず前提として、霊と一般に言われるものは、ただのエネルギーだということ。

このことは僕の中では、食べ物を食べたらウンコが出るくらいに当たり前のことになっている。

そういうエネルギーは身の回りに当たり前にあるもので、霊の出る部屋、出る場所にだけあるものじゃない。今、僕の体の中にもたくさんある。

このことは僕が見えな世界に興味を持った時に、最初にネットで出会った気の達人に教わったことで、そのことは今でも世界を理解する上でのベースになっている。

今までも言ってきたけど、誰もが常に頭の中で思考をしている。

ほっとけば勝手に消えていくものだけど、執着や感情を伴うと、思考に方向性ができて、どんどんそっちの方へ肥大していく。

そんな思考の対象が、人や物のように外部にあれば、そっちに飛んで行く。まるでウェブのリンクを踏んだように、距離も時間も関係なく飛んでいき、そこに紐付けられるんだ。

それは生きている時に人に対して飛ばしたなら生霊と呼ばれるものになるし、物や場所に紐付けられれば、その人の死後に霊と呼ばれるものになる。

物や場所に思考のエネルギーが固まってへばりついているようなもんだ。

その気の達人はそういうエネルギーは半物質のようなものだと表現していた。

そのことを前提にネットとデバイスの模式図に当てはめると、いわゆる霊と呼ばれるものは

AR(拡張現実)で見ている架空の映像みたいなものだと言える。

ARというのは特殊な記号を記した床面を 専用のアプリを通してカメラで見るとそこに3Dの映像が浮かび上がるというやつ。

こんなやつだ。

なんとなく分かってきたかな?

個々のデバイスでアプリをインストールしている人だけが見ることができる。

アプリのない人は、何の存在も感じられない。

そのアプリはSNSの機能もあって霊界にも通じている。

だから霊が見える、見えないはただアプリがインストールされてるかどうかの違いだけだ。

それも無料アプリだ。誰でも手に入れれるがわざわざダウンロードする人は少ない。

親がそのアプリを持っていたら、勝手にインストールされていたりするだけなんだ。

この世は非二元から言えば、バーチャルだからそのアプリで見るARはバーチャルの中のバーチャルという入れ子構造になっているんだ。

結局、ネット(全体・一なるもの・真理)の中でただ起きている経験であって、何も非二元と矛盾しない。

霊界は死後の世界があると信じている人たちの思考の集合体で、バーチャルではあるけど現実化している。だから国や文化が違えば死後の世界は異なる。

死んだら墓に入ると思っている人のエゴ(自我:思考の集積)は、実際死んだら墓にひも付けされて墓場をさまよっていたりする。

この世に残ったエゴは死んだ時、誰かに付いたりもする。たとえばおじいちゃんが死んだ時、かわいがっていた孫についたり。

何の関わりもない新生児についたりしたら、そのエゴはその子の前世ということになる。

また、日本の八百万の神も信心している人たちの、祈りという方向性を持った思考のエネルギーが集積して、言わば昔ながらの”神”になる。その”神”は人格すら持つ。

そんな”神”は高次の存在となり、人間を導くかも知れない。

また人智を超えたルートで高次の存在となったものもいるだろう。

しかし視点を変えれば、それらもひっくるめてこの世というバーチャルの世界のひとつの経験がただ起こっているだけとも言える。

すべては”それ”に含まれるんだ。

なんかダラダラと長くなっちゃってすみません。うまく説明できなかった。

結局、この話も僕の思考が生み出したものだから、エッセンスだけ感じてもらえたら後は忘れてください。

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