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無条件のしあわせ

思い出

僕が小学校低学年の頃だからもう何十年も前の事になります。

その頃の僕の家は二棟続きの狭い平屋の借家で、おばあちゃんと両親、そして姉の4人で住んでいました。

その当時ですでに建物は古く、もちろん廊下なんてなくて、部屋と部屋が直接続いているそんな家でした。

寝る時は、布団を並べて姉と同じ部屋に、両親はすぐ隣の部屋でちょうど頭を僕らとつき合わせるような形で寝ていました。

あれはたしか、お休みを言って布団の中に入ったものの、眠くなくてごそごそしていた時だったと思う。

隣の部屋でも両親が寝る準備をして布団に入りながらテレビを見ていた。

僕は寝れない時、布団の中からこっそりとそのテレビを盗み見することがよくあった。

その時も、布団の中でぬくぬくとしながら、こっそりテレビを見ていたんだ。

すると突然、胸のあたりが熱くなってきたんだ。

何が起こっているのかわからなかった。

それでもその感覚が、プレゼントをもらった時や褒められた時、遊園地に連れて行ってもらった時なんかに感じる、しあわせな感じに似ていることはわかった。

同じではなく、その感覚のでっかい版だった。

今になって考えてみるとどうも至福体験だったみたい。

その時の僕は、でっかいしあわせだと気づいてどうしたと思う?

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しあわせは何かの代償に得られるもの?

「こんなんおかしい、違う違う」

僕は必死でその思いを消そうとしたんだ。

それまでしあわせを感じるのは、勉強をがんばって褒められた時、お利口にしてて褒められた時に感じるものだった。

誕生日プレゼントは誕生日という大義名分があるし、休みに遊園地に連れて行ってもらえるのも、日頃の行いのご褒美みたいなものだ。

まだそんな小さな頃から、しあわせは何かの代償に得られるものだと身に沁みついていたんだ。

だから、そんなでっかいしあわせが唐突にやって来た時、なんと僕は後ろめたい感情から、その感覚を消そうとしたんだ。

結局、その感覚は僕の努力のおかげ?で、1~2分で消えてしまった。

でも、その体験は強烈だったので、その感覚を何十年経っても覚えている。

以前、神との対話の体験をした時に、やっと子どもの時のあの感覚が至福体験だったということに気づいたんだ。

しあわせは何かの代償に得られるもの、という拘りは大人の方が根強いだろうと思う。

誰かが苦労もせず、成功したりお金を手にれたりしたら、妬みの感覚が出てきますよね。

これは代償なしにしあわせを得ることを良しとしないからでしょう。

逆に、自分にいいことが続くとそのうち悪いことが起こるんじゃないかと不安にもなる。

もし自分は何事にも上手くいかないと感じているなら、自分が幸せになるに相応しくない、あるいはそれだけの犠牲や努力を払っていないと、自らしあわせを遠ざけているのかも。

どこかに自分を卑下する思いがあるのかもしれません。

まさしく、自分で苦を作り出しているのでしょう。

でも本来、人はしあわせがデフォルト。

赤ちゃんのように心からニコニコしてしあわせなのが本当の姿。

瞑想でこれまで抱えてきた荷物を下ろすことができれば、きっと楽に生きられます。

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