今回は、瞑想から得た知恵だけど、瞑想ができなくても十分応用できるライフハック。
前に書いたようにこの世の有り様は、視覚も、聴覚も、触覚など五感すべて、さらに思考や夢も、意識というたった1つのスクリーンに、映し出される経験だ。
ある時ストレッチをしながら、なんとはなしに瞑想状態になって体の感覚を眺めていた。
その時に、ストレッチで伸ばしている筋(すじ)が痛むのをただ感じていたときに気づいたことなんだ。
痛みは大幅に増幅されている
「いち、にー、さん、しー、ごー、ろく、しち、はち」
頭の中で数をかぞえながら、ぼんやりとストレッチをしていた。
時に意識して瞑想状態に入ったり、平常の意識に戻ったり。
そんなことを繰り返していた。
ふと、その時に痛みの感じ方に違いがあるのに気づいた。
ストレッチを普通に頑張ってするときって、筋が結構痛いよね。
他ではない、独特の耐え難い痛さ。
体育の授業の時、二人一組で柔軟運動で前屈をするのに、足を広げて座っている相手を、もう一方が背中を押して無理矢理曲げさせると、大概の生徒が声を上げて痛がっていたと思う。
膝の裏のなんとも言えない痛さ、わかるでしょ?
僕はその時、瞑想状態になってただ痛みの経験に没頭していると、あの筋を伸ばす痛みが耐えられる程度に和らぐことに気づいた。
そして瞑想状態から平常の意識に戻って、「痛たたたっ」と思考が出てくると途端に痛くなる。
これでわかったのは、痛い、辛いと文句を言う思考が不在だと、痛みはそれほどでもないことだ。
リアルな痛みというのは自分が思っているほど痛くない。
瞑想なしに痛みは和らぐ
瞑想できない人は、どうすればいいんだとお叱りを受けるかもしれませんが、瞑想ができなくとも痛みの感じ方を変えれば痛みを和らげることは可能です。
その方法とは、
痛みを少しも漏らさずに味わい尽くすこと。
もっと簡単にいえば、痛みの感覚がどういう感じなのかを観察することだ。
人が痛みを感じる時、どういうシステムになっているのか?
まず、純粋な痛みの経験、”ただの痛み”がある。
その痛みに反応して自我が「痛ーッ」と大騒ぎ。
ひとしきり痛みを訴えたあとに、痛みの責任者を探す。
責任者(人・物・そうなった成り行き等)が上手く見つかれば、怒りや恨み言を責任者にぶつける。この時”痛みで大騒ぎ”に”怒りで大騒”ぎがプラスされる。
もし、責任者が見つからなければ、不幸な目に遭った自分を”嘆く”あるいは自分の境遇を”呪う”という負の思考が”痛みで大騒ぎ”
これらが合わさって、本人が感じていると思っている痛さは何倍にも膨れ上がる。
痛みで大騒ぎしている間は思考に忙しく、”ただの痛み”はとぎれとぎれにしか感じていない。
リアルな”ただの痛み”は案外に小さい。
痛みを観察するとはリアルな”ただの痛み”だけに集中することなんだ。
痛みを観察するコツとしては、その痛みを言葉で表現しようとしてごらん。
表現するためには、痛みを仔細に調べる必要があり、自然と観察をすることになる。
そして痛みを観察している時、大騒ぎするほどに痛くないのに気づくと思う。
足の小指を打った時にでも思い出してやってごらん。
これまでより痛くないはずだし、痛みが消えていくのも早いはずだ。
ただし、激しい痛み(ぎっくり腰などのズキッと来るような)には使えないかも。
大騒ぎする思考をたぶん抑えきれないだろうから。
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