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その時、プツンといって思考の声が消えた

すみません、嘘をつきました。

思考の声は消えていません。でもプツンという感じで突然ボリュームが下がったのはほんとうです。

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真剣にプレゼンスに留まることだけを心掛けた

それまでに坐禅を入れたら何年か瞑想に取り組んでいました。

さらにその前に一瞥があったので(→神との対話)、悟後の修行ということですね。

その時はそんな意識はなく、どちらかと言うとまたその時のような至高の状態に戻りたいという欲求の方が強かったかもしれません。

”在る”(マハラジの言う”I am that.”あるいは”いまここ”あるいは”プレゼンス”)という状態が腑に落ちて、瞑想しなくとも意識すれば”在る”状態に居れるようにはなっていました。

しかし、日常の生活はいろんな波乱を伴って現れ続けますから、油断するとすぐに思考に囚われてしまいます。

そこで、真剣に寸時もプレゼンスを見失うことなく、留まれることを目指しました。

最初は、なかなかの苦行です。

常に、物事に対する思考の反応に眼を光らせなければなりません。

何を考えるにも、意識的にあらねばならないのです。

人と話している時も、話している自分を客観的に観察し、出てくる言葉もそれに伴う感情の動きも第三者的に見ます。

ヴィパッサナー瞑想で動きにラベリングしていくように。

まともに会話するのは難しいので、軽いノリの世間話は極力しなくなります。

そういうことを半年以上続けたかな。

それは唐突に起こった

僕の仕事は昼間に時間が空くので、よく昼寝をします。

そのときも食後、プレゼンスをキープすることを気をつけながら、横になっていました。

この頃は、夜寝る時もプレゼンスを心がけて、いわば寝瞑想のような状態でそのまま眠りにつくことが多かったです。

それでも頭の中では絶えず思考がおしゃべりを続けていましたが、巻き込まれ無いよう、巻き込まれ無いよう注意する必要がありました。

その昼も寝瞑想でうとうとまどろんでいました。

その状態で無意識に思考が湧いてくるのを観察しています。

さすがにそれだけ続けていれば、無意識にプレゼンスにあり続けて、思考を見つめることはたやすくなっていました。

すると唐突に、プツンという感じで思考のおしゃべりが消えたのです。

まどろんでいた僕は、突然の静けさにびっくりして飛び起きました。

大きな音にびっくりすることは普通ですが、静けさにびっくりしたのは後にも先にもその時だけです。

起き上がって一瞬、何が起こったかわかりませんでしたが、頭の中が笑えるくらいに空っぽで静かになっているのに気付きました。

別に至高状態になったわけではなく、ただ頭の中が静まり返っていました。

今も続くその状態

結局、完全に思考の声が消えたわけではありませんでした。

気を抜けば出てきますが、その声は以前のようにはっきりはせず、一段深いところから聞こえてくるような感じです。

以前の頭の中がうるさかった状態をもう忘れているので、例えるのが難しいですが、声じゃなくニュアンスが届くような感じでしょうか。

意識的に考えることはできますが、自分で考えているというより、考えが出てくるのを待つような感じになります。

それでも楽しいことや、悲しいドラマを見て楽しむことはできますし、以前よりダイレクトに感情を表現しているかもしれません。(もともと内向的な人間でしたから)

他に変わったといえば、行動力が出てきたことかな。

以前は一歩踏み出す前に、あれこれ悪い結果を考えてやらない理由を探していたのが、やろうと思ったら、すぐに行動に移せるようになりました。

やらない理由を提示するエゴが口数少なくなったから、当然といえば当然ですね。

あと何か動作をしていても、体が勝手にやっている感覚がよく出てきます。

第三者的に自分の体が動いているのを見るというのは、とても不思議な感覚です。

その後、ずっと同じ感覚ではなく、少しずつ上に書いたような傾向が強くなっています。

また、何か大きく変化するのかもしれませんし、変化しないのかもしれません。

それはもうどっちでもいいです。ただ、永遠の”今”が続いていくだけですから。

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